若い人のための沖縄ヤクザ闘争史①
目にする文字やその情報量自体はここ何十年も変わっていないと思う。
ただ、SNSの影響で軽い言葉、言葉の機能に付加価値をつけたような言い回しなどを目にすることが多くなったと思う。
会いたいけど会えないし、さくら舞い散るし、同じ空を見ているし、
凡そ、俳句が生まれた国とは思えない。
「空けない夜はないよ」と慰める人間に悪意はないとは思うが、
嘘くささだけが光輝いている。
直接的でキレイで前向きな言葉は分かりやすい。
言葉を蹂躙している人たちが言葉をツールとしている世の中になったなとつくづく思う。
遠藤周作や村上春樹も読むには読むが、
自分自身、何かのバランスを取ろうとしているのか、その倍くらいルポルタージュを読む。
ルポルタージュは書き手のバイアスが多少あろうが、
内容自体は事実に基づいている。
ほんの数十年前にこんなことがあったのか、と、
メルヘンより生々しいリアルに関心がある人間には堪らないと思う。
そして、その中でヤクザ関連のルポルタージュは特に面白い。
特に沖縄のヤクザ史は映画になったほど面白い。
暴力で力を誇示し、血で血を洗うという世界は、今から見ると生産性の欠片もないし、
なんでそんなことで争っているの?と言えると思う。
それは当然だが、問題は、今はそう見えても、実際にそういう必然性があった当時の世の中であって、数十年後の人間が俯瞰でそれを笑うのはまさに愚の骨頂だと思う。
リスペクトする必要はないが、歴史を振り返って馬鹿みたいと言う人間は友達にはなれない。
そういう輩は平気で、バブル時代のスーツはダサいよなーとか恥ずかしいことを宣うのだろうね。
さて、自分がなぜヤクザの歴史に興味があるのか。
これは戦国時代の歴史に興味があることと同じである。
それらは現代社会、まさにサラリーマンの世界にも脈々と受け継がれているから面白いのである。
さすがに今は相手を実際に刺すことはいけないが、
なんだかんだ、リーガルな範囲で刺しあっているのがサラリーマンの世界でもある。
顕示欲・独占欲・男の嫉妬・野心、それらは完全に奥底に隠れ、
キレイな言葉でコミュニケーションを取っているサラリーマンは多い。
でもそれは嘘だ。
白々しい嘘だ。でもまあこれが現代社会の刺し合いだから仕方ないのかもしれない。
さて、沖縄ヤクザの歴史について。
歴史上、第6次抗争まであるのだけど、ここでは沖縄最大の暴力団、旭琉会(構成員数800人)と上原組(組員60人)の抗争について触れたいと思う。
元々、沖縄ヤクザは米軍から闇品や武器を盗んで市場で売り捌いていた「戦果アギヤー」という愚連隊みたいなグループが基礎になっている。
それらが徒党と組み、山原派・泡瀬派・普天間派・那覇派という4つの組織があったのだが、抗争により、山原派と那覇派の2つの組織で落ち着いた。
その当時、沖縄は日本復帰前で、山口組進出を阻むために2つは大同団結し、
「沖縄連合旭琉会(以下旭琉会)」を結成。初代会長は山原派長老の仲本善忠、理事長は2人で、
山原派の新城喜史(目が大きいので通称ミンタミー)、那覇派は又吉世喜(通称スター)がついた。
又吉世喜がなぜスターといわれたのか?
実は山原派と敵対していた頃、ミンタミーから2回暗殺されたが死ななかったことと、後に「俺たちがいがみ合っていては山口組にシマを取られる」とのことでミンタミーを許したことからそう呼ばれている。
そう呼ばれているからって「スター」と名付けるのも凄いが、呼ばせるところも器の大きさを感じずにはいられない。しかも「スターさん」とそのまんまな感じで呼ばれていたというから、にしきのあきらなど足許にも及ばない。(よくわからんけど)
旭琉会には理事長以下、理事が20名おり、その中に上原勇吉(上原組組長)がいた。
上原勇吉は山原派の急先鋒として、泡瀬派壊滅へ追いやった。
その結果山原派はその地位を確保した。
抗争の際に数名の組員が服役したが、その戦績になんの論功行賞も行わなず、理事長にふんぞり返っているミンタミーに対し、勇吉は不満を持っていた。
そういったことで勇吉は理事会を欠席しがちとなった。
すると、「勇吉は理事会を軽視している」と、謹慎処分が下り、尚且つ、ミンタミーはこともあろうか、上原組の金づるである沖縄市知花のトランプ賭場を理事長権限で閉鎖してしまった。
つまりミンタミーは勇吉をつぶしにかかったわけである。
力のあるものがその力を誇示するためには一般の会社でもそういうことはある。
企業も暴力団もガバナンス大事。
さて、このような場合、態度を改めて軍門に下るか、反目に回るか、その二者択一になるのだが、勇吉は後者を選んだ。
ただの意地だと思うが、個人的にはとても分かる気がする。
芸者やれと言われて、生活があるのでそこを我慢してできる人間もいるだろうが、
できない人間はできないと思う。
それを妥協したら存在する意味すらなくなるということはあると思う。
勇吉は明確に反目に回ることを示し、そこから凄惨な抗争が始まるのである。
②へ続く