宮史郎コーリング
youtube musicは便利だ。
ある曲を選曲したら、あとは勝手に似た傾向の音楽を流し続けてくれる。
例えば、打首獄門同好会の「なつのうた」を聴いたあと、最近の日本のロック縛りで次から次へといわゆる今風のユニークな日本のロックが流れてくる。
最近の日本ロックを批判するつもりはさらさらないことは先に言っておくが、
なんていうんでしょう、この「等身大感」(笑)
内省的な内容が多いというか、スガシカオの功罪なのかなとかなんとか思いながら聴き流す。
で、「別の人の彼女になったよ」というタイトルの曲が流れ出した。
まさに今風の女の子がアコギを弾いて歌っている曲なんだろうなーとうっすら思っていた。
ところが、流れてきた歌声が男であった。
そのとき私は「宮史郎か!」と思い切り叫んでしまった。(もちろん脳内で)
男が女目線で歌うことは宮史郎に限らずよくあるが、
「別の人の彼女になったよ」で男が歌うのはダメだろ・・・。
このモヤモヤのおかげで宮史郎のことが脳をよぎりはじめた。
いや、正確に言うと、宮史郎という人は脳裏をよぎってくれない、
脳裏からなかなか消えてくれないキャラなのである。
たくさん考え事がある中で、しばらく宮史郎が常駐してしまうのである。
常駐系なのである。
昔のウィルスバスターか!といいたくなるくらい脳内タスクバーの右端に常駐する宮史郎。
その時にふと「昔のほうが多様性があったんじゃないだろうか?」との考えが浮かんできた。
小学校低学年の頃、よくテレビに宮史郎が出ていた。
リアルタイムでも十分トリッキーなルックスであった。
official髭男dism?それって宮史郎のことだろ?と言いたくもなるほどである。
凄まじいダミ声で昭和の大ヒット曲「女のみち」を歌う
「女じゃないじゃんww」などのツッコミは一切なし。
それは、海苔佃煮「ごはんですよ」を「ごはんじゃないじゃんww」ということと同じくらい無粋で無意味なツッコミである。
というかそんな時代。
ピーターが「人間狩り」という曲でデビューした時も、
当時はピーターの属性にもタイトルにも誰もどこにもツッコまなかった。
「Twitterがなかったから」
うん、単にそうかもしれないね。
でも当時は、なにかざわざわするような案件は気にしないという空気があったように思う。
”東京に変わった人が多いのはなぜか?=誰も他人を気にしないから”
多様性って結局それだと思う。
以前、那覇市が運営するインキュベーションに入居していた。
市の建物なので、市が発行する印刷物があちらこちらに貼り出されているのだけど、
一時期、「性の多様性を尊重する都市・なは(レインボーなは)」と書かれたポスターが多数貼られていた。
どこを見てもレインボーカラーのポスター。
個人的には取り組みは素晴らしいと思ったし、良いことだとも思ったが、
振り子があっちへ行ったきり戻ってこないというか、
やりすぎて実は多様性を尊重していないんじゃないかと思ったりもした。
何というのか、一生懸命やるのは応援したいが、執着がちょっと強すぎると、何かと戦っている感が出てしまうというか・・・。
性の多様性を尊重しましょうね、が、性に対して保守的な価値観を駆逐するぞ!に見えてしまう。
で、いろいろ考えたのだが、やはり多様性にも複数の意味があるのだろうと思う。
■個人の属性など気にしないカオスみたいな世界(しまじろうの世界みたいな)
■少数派に理解を示す世界
おそらく那覇市のやつとかは後者なんだろうと思う。
そのような運動は多様性という言葉ではなく別のもっと適切な言葉を使ったほうが誤解がないように思うんだけどな。
ちなみに「女のみち」は男の世界にあるステレオタイプな女性像で、
好きな男に振られて人生に絶望しかかってオーイオーイと泣く女性の歌である。
そもそもいつの時代もそんな女性はあまりいなかったのではなかろうか。
自分と違う意見を尊重できることが人として成熟してると個人的には考えている。
が、しかし、それができない人間を否定しようとも思わない。
いろんな人がいろんなことを考えている。ただそれだけ。