村上春樹が好きなのか嫌いなのかわからない

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今でこそベッドで眠る前に見るのはスマホなんだけど、

昔は本だった。

僕の場合は、毎日同じ本を読んでいた。

毎日、眠りに入る直前の10分くらいしか読まないので、

1冊読むのに1ヶ月かかり、また最初から読むというサイクルだった。

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僕は開高健の「オーパ・モンゴル篇中国篇スリランカ篇」を

ずーっと読んでいたな。

恐らく3年くらいこの本が一冊だけベッドの棚に置かれていた。

開高健に関しては、元々、闇三部作から読んでそれ以来大好きな作家のひとりとなった。

オーパは著者のサイドストーリーというか、

少し力の抜けたもので読みやすく、更に好きになった。

ただ、力を抜いても文章そのものは本当に凄かった。

今でも開高作品は読む。

本は時間が止まっているのに、僕の感心や驚きはどんどん変化していく。

あんな文章絶対に書けない。

一行に価格をつけても良いくらいに思う。

 

さて、村上春樹

村上春樹の文章もひとつひとつ価格を付けたくなるものが多い。

僕の場合、特に「風の歌を聴け」は何十回と読んだ。

何百回かも知れない。

ただ、好きなんだけど妙に鼻につく。

読みながら微かに苛ついてることに気付く。

 

猫はミント系の匂いが苦手だ。

昔、飼っていた猫も、僕が頭皮に噴射する育毛スプレーのミント臭を嗅ぐたび、

オエッと言っていた。

オエッというのに何度も匂いを嗅ぎにきた。

嫌いな匂いなのになんで嗅ぐのか意味が分からなかったが、

最終的にはそのスプレーをペロペロ舐めていた。

オエオエ言いながらも舐めるくらい好きになることもあるんだ。

断じて舐めるものではないのに・・・。

僕が村上春樹作品に感じる距離感はこの猫とスプレーの関係に近い。

 

村上春樹は比喩が多い。

どれもいちいちかっこよくて、比喩のためにストーリーがあるのかと思うくらいだ。

坂口征二のプロレスがアトミックドロップをするためにあるのと同様、

帰納法的だ。(あっ、オレも例えちゃった)

風の歌を聴け」にこんな一節がある。

”一枚の版画がかかっていて、どうしようもなく退屈した時など僕は何時間も飽きもせずにその絵を眺めつづけた。まるでロールシャッハテストにでも使われそうなその図柄は、僕に向かい合って座った二匹の緑色の猿が空気の抜けた二つのテニスボールを投げあってるように見えた”

この短い文章の中にしつこく2つも比喩的表現がある。

トゥーマッチでしょ。「ちょっと何言ってるかわからない」と言いたくもなる。

本を読むのが苦手な人は、その文章を自分の理解で落とし込もうとする。

そのような人には村上春樹は面白くないかも知れない。

反動で斎藤ひとりの本を読むのかも知れない。

「ありがとう」って書かれたTシャツを着だすかもしれない。

僕のように文章のパワーに惹きつけられている人間は、まず意味を理解しようとは思わない。

厳密に言うと、話の筋が生命線の本は意味を追いかけるが、

文章のまさに力に書かれた本はそのまま文章の力を感じる、というのか。

音楽でも、たまにはキレイな世界から外れてキャプテン・ビーフハートとかザッパを聴きたくなるのと一緒なのである。

スパゲティミートソースをグチャグチャ音を立てながら食べ、

赤ワインをボトルからラッパ飲みしたくなるときもあるのだ。

ただ、その村上春樹が好きかと訊かれれば素直に好きとは言えないなにかがある。

その感情を説明する言葉がないというのは正直なところである。

なんというか、凄い釣り師が大物をたくさん釣って、

「スゲー!」と言いながらよく見たら全部魚のエラにハリが掛かっていた、みたいな。

うんー例えるの便利だけどなにが言いたいか自分でもわからなくなる。