今でも探しているよ

f:id:kkdsaur21:20170614130057j:plain今で

先ほど羽田について食事しようと入った店で、

山崎まさよしの名曲「ワンモアタイム・ワンモアチャンス」が流れてきた。

男のひとりよがりな後ろ向き感全開の曲だが、バカポジティブな曲よりは少しはマシな曲だ。

好きだったオンナと別れたけど、どうしても忘れられなくてあちこち探してしまう、

という、一回カウンセラーやセラピーと紹介したくなる内容なのだが、

とにかく、探す場所のクセが強い。

これはつまり、本気で探してはいない=探したいけど諦めている、という意味なのだろうと思うのだけど、少しクスッとしてしまう部分もある。

「いつでも探しているよ」をブリッジとして、

”旅先の店、新聞の隅”って、

死亡広告を探しているようで怖い。沖縄おくやみ情報!と言いたくもなる。

あと”路地裏の窓”って軽くヒッチコックが入っているし、

”明け方の街、桜木町で”と言われても、

「ピンポイント過ぎて!ははーんお主探す気ないな?」

と言いたくもなる。

ところがだ。この曲を今聴くと大変味わいがある。

当時と現在の差異に趣がある。

当時はSNSなんてなかったので、まぁ旅先でも探したのだろうが、

今の時代では手法は変わってくるのである。

「今でも探しているよ」

の後はやっぱり、

ハッシュタグで、エゴサーチで”となるし、

facebookで、twitterで”

となり、探しやすさや探せる確度が以前と比較して異常に高くなるのだ。

探されると困るものが探せちゃう可能性があるのだ。

そして個人情報保護法に抵触するリスクも背負うことになるのだ。

予測変換次第によっては地球政府googleに訴訟が起こる可能性もあるのだ。

つまり斧で和紙を切るようなものなのである。(よくわからない例えだけど)

友達がいない人間が仮想的に1,000人の友達やネットワークを作れる世界も功罪があるわけなのだ。

味気ないと思うのは昭和の人間ならではのつまらない感傷かもしれないが、

この曲を聴きながら、便利さというのは機微とか行間の表現を殺すこともあるんだなとふと思った。